歴史についてです 21ヶ条の要求って、どういう経緯で出したんでしょうか? 日本はそんな要求を...
15:3422歴史についてです 21ヶ条の要求って、どういう経緯で出んでしょうか? 日本はそんな要求を中国に対出せるほど優位な立場だったんですかね。。
お願いします歴史についてです 21ヶ条の要求って、どういう経緯で出んでしょうか? 日本はそんな要求を中国に対出せるほど優位な立場だったんですかね。。
お願いします …続きを読む歴史 | 16:35連合国側で参戦、膠州湾租借地をドイツから奪って中華民国に返還する事で袁世凱に恩を売り、中国での権益を(南満州以外でも)獲得しよう、と言うのが、そもそもの日本政府の第一次世界大戦参戦の動機で。。
つまり、最初から、21カ条の要求のような事をするつもりで参戦、予定通り、要求を出、って事です。。
日本は、日清戦争と日露戦争に勝ち、ロシアの南満州での権益を引き継いでいま。。
つまり、事実と、中国にとっては他の列強と同質の関係で。。
で、他の列強は第一次世界大戦に手を取られているから、中国とは他の列強に泣きついて、日本を牽制貰う事も出来ません。。
そう状況を、日本政府は絶好のチャンスと利用しようと、って事です。。
尤も、『中国でのナショナリズムの勃興』と言う要素は完全に見落といた上に、欲をかきすぎててんこ盛りの要求を出、英米からも警戒されてしまったので、目論見程は"美味しい目"は見られませんでけどね。。
一応根拠を挙げておきます。。
早稲田大学社会科学部学会「早稻田人文自然科學研究」第23巻1983年3月所収の「対華二十一条要求と大隈重信」(木村時夫)という論文へのリンクが↓にありますが、この論文から当時の日本の指導者層の中の『動機』をご紹介します。。
1914年8月7日(対独最後通牒の8日前)に、参戦問題を元老と閣僚の合同会議で議論際の覚書がこの論文のP12から13に載っています。。
そこから引用すると、 『一、欧州ノ大禍乱ハ日本国運ノ発展二対スル大正新代ノ天祐ニシテ、日本国ハ直二挙国一致ノ団結ヲ以テ、此天祐ヲ享受セザルベカラズ』 (中略) 『一、此戦局ト共二英仏露ノ団結一致一更二強固ナルト共二、日本ハ右三国ト一致団結シテ弦二東洋二対スル日本ノ利権ヲ確立セザルペカラズ (中略) 『一、此上英仏露ト誠実ナル聯合的団結ヲナシ、此基礎ヲ以テ、日本ハ支那ノ統一者ヲ懐柔セザルベカラズ』 欧州での大戦争は、日本の国運の発展に対する『天佑』=「天の助け」であって、(これを機会に)『東洋での日本の利権を確立せねばならない』、『支那の統一者(=袁世凱を指す)を懐柔しなければならない』と言っています。。
これが参戦の動機です。。
政策研究大学院大学東京大学東洋文化研究所の『データベース「世界と日本」』の中の『戦前日本政治外交文書(1945年8月14日以前)』の中に、8月9日付の加藤高明外相の在日英国大使宛の文書と、それに対する8月10日付の英国外相の在英日本大使宛の文書が載っています。。
(↓) 原文は旧字体かつカナ交じりですがご興味があればご自身で読んで頂くと、「支那海でドイツ仮装巡洋艦を捜索し撃破くれ」という英国の要請について、加藤外相が言ったのは… それは紛れもない交戦行為であり、日本が一旦交戦国となれば日本の行動は仮装巡洋艦の撃破だけに限る事は出来ず、東アジアの日英両国の利益に損害を与えるであろうドイツの勢力を破滅させる為のすべての手段を、いずれは採らねばならなくなるだろう。。
また、ドイツ仮装巡洋艦撃破の為だけに日本の軍艦を使うのは、英国の一時的な便宜の為にやっている事と看做されるので、「参戦の根拠を日英同盟と、状況の進展に応じて日本は必要な手段をとる」とすべきと考える。。
日本の開戦宣言は「ドイツの侵略的行動の結果。。
東アジアでの平和が危機にあり、権益が危機な状況にあるから、英国が日本に援助を求め、日本はそれに応じた」という事にい という事です。。
東シナ海でのドイツの仮装巡洋艦の撃破だけじゃ、まさに加藤外相の言っている通り、「英国の一時的都合の為に使われた」に(見えるじゃなくまさに)そうでしかないので、それをテコに「権益拡大」しようも、タカが知れていますからね…。。
袁世凱を懐柔する役にも全く立ちません。。
だから、日本政府とは、もっと"ちゃんと参戦"にかったんです。。
それに対する英国外相のは、 中国での内政商業上の混乱を避ける為、戦闘行為は海上(具体的には英国商船の保護)だけに限る事を英国は切望いる。。
加藤外相が言う「日本がドイツに開戦するなら、軍事行動を海上に限る事は不可能」という事もわかった。。
今のところ英国は東アジアでの戦闘は海上に限定すべきと信じているので、とりあえず日英同盟に基づいて(仮装巡洋艦撃破などの)行動の要請は諦める。。
今後より重大な事態(例えば香港が攻撃される、とか)になれば、また考え直す。。
というもので。。
(実際には、英国は日本の権益拡大の可能性を懸念いたのですけどね…) その後も、英国は背に腹は換えられず、やっぱり参戦くれ、でも、中国沿岸域だけにくれ(太平洋のドイツ植民地には手を出すな)、日本は「作戦地域の限定は嫌だ」みたいなやりとりがあり、結局は日本の要求が通って、で、日本がドイツに出最後通牒が、これも『戦前日本政治外交文書(1945年8月14日以前)』の中にあります。。
(↓) 対独要求は、 日本及び中国近海からのドイツ艦艇の即時退去(もしくは即時の武装解除) ドイツが膠州湾租借地を中国に返還する目的で日本に引き渡す の二点で。。
ドイツに『膠州湾租借地を中国に返還する目的で日本に引き渡す』事を要求のは、膠州湾租借地を中国に取り戻させてそれで袁世凱を懐柔、その見返りに権益を獲得しようといたからです。。
袁世凱に恩を売るなら、最初から堂々と宣言方がより効果的ですからね。。
この様に、他の列強が戦争に手を取られている隙が出来た隙を狙って、連合国にも袁世凱にも恩を売って、(南満州以外でも)中国での権益を獲得出来る絶好のチャンス、と山縣有朋達が考えたから、既に御紹介覚書でも『天佑』って言葉を使っている訳です。。
で、その天佑を活かすには、最初に英国が要請きた、『東シナ海の仮装巡洋艦の撃破』じゃ足りないので、"そんなんじゃ嫌だ"って断った訳です。。
このはいかがでか? 質問者 16:59すごく詳しくまとめてくれてありがとうございます!面白かったです